『大正を駆けぬけた夭折の画家 高間筆子幻景』 / 窪島誠一郎

高間筆子とは

私は大正期に夭折した2人の画家、関根正二と村山槐多に強く惹かれるのだけれど、窪島誠一郎はこの2人に高間筆子を加え「大正期の若き天才オリオン」としています。


ときは、大正。ところは隅田の河のほとり。
「丸惣」という石炭運送をいとなむ回漕問屋があったという。

それはたいそう羽振りがよく、子供たちに芸事をさせ、良家子女が通う学校へあげるほどであった。

この家の6人兄弟の4女として生まれた筆子。
踊りの筋はよかったようだが、才気活発ということではなく、特に目立たないどこにでもいる普通の子供だった。

筆子の長兄、惣七には絵の才があり、文展で特賞を得るなど、新進画家として世に出つつあった。
筆子はその兄に誘われるかのように、絵具を得、突然絵画にのめり込むようになる。

気が乗ると幾晩も徹して、キャンバスに向かう。
朝でも夜でも思うところあれば、絵具を押し車に乗せスケッチに出歩く。

髪を振り乱し、裾ははだけ、そのさまは憑き物が憑いたかの如くであったという。

はたちの年に川端画学校に入学してからは、人体デッサンに魅了され、男女の裸体を恥部までも凝視して描き切ったという。その作品は、異性を知らぬ乙女のものとは思えぬほどだった。

迫力あるその画風は、評判を呼び、若き新人女流画家として注目を浴びはじめる。

ちょうどそのころ、多くの人々を死の淵に追いやったスペイン風邪が東京の街を襲う。筆子もその波に飲まれてしまう。

高熱を出し、体力を消耗した筆子は、1922年5月9日、2階から表通りに頭から飛び込むようにして落ちて、命を落とした。
狂気の末か、自死かは、闇の中である。
筆子、21の春のことであった。

失われた作品

このように21歳という短い生涯を閉じた筆子です。

短くも萬鉄五郎をはじめ、多くの人を驚嘆させたという筆子の作品は、じつは現在ただの1点も見つかっていないのです。

関東大震災東京大空襲
この二つの大きな悲劇は、東京下町にあった丸惣を壊滅させたということです。
どうも筆子の作品もそこですべてが焼失したとみられています。

現在の私たちが筆子の絵を知るには、筆子の死を悼み発行された「高間筆子詩画集」に残るのみです。
しかし、それも1度再版されたものの、現在は絶版。
この詩画集でさえ手に入れることは至難のわざということです。


高間筆子
幻の天才画家にセンチメンタルな浪漫を感じるだけでは哀しすぎます。
ある日突然、どこかのお蔵からお宝発掘!

そんな奇跡があることを願ってやみません。

 
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関根正二の生をたどって -2- 日比谷公園

《信仰の悲しみ》

関根正二が第5回二科展にて樗牛賞を受賞した《信仰の悲しみ》。

大原美術館蔵 関根19歳(1918)の作。油彩・画布。70.0×100.0。

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『本作について関根は、東京の日比谷公園で休んでいる時、公衆トイレから、こうした人々の列が金色に輝きながら出現したとし、こう述べている。
「朝夕孤独の淋しさに何物かに祈る心地になる時、ああした女が三人又五人、私の目の前に現れるのです」』

OHARA MUSEUM of ART ― 作品紹介>主な作品の紹介>日本の絵画と彫刻>関根正二 大原美術館作品の紹介ページより

 

このことから関根正二は「幻視の画家」と呼ばれることもあります。

友人である小説家・久米正雄の『鼻を切ったS君』という短編に、その直前の関根の様子が細かく描かれています。

それを読むと蓄膿症の手術後の療養時であったことと失恋の痛手が「幻視」を呼んだのではないかと想像されます。

なにぶん天才肌の19歳の少年。感受性が高じて不安定な精神状態に陥ることはありがちではないでしょうか。

この時期何度も足しげく訪れたという日比谷公園は、関根の生涯の中でも大切な場所に思え、私も出かけてみることにしました。

幻視の舞台は?

現在日比谷公園には6か所のトイレがあります。このどこかで女性たちの幻を見たのでしょうか。

トイレは配管のこともあるから、建物は新しくしても場所はあまり移動しないのではないでしょうか。

 

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すべてのトイレを回ってみました。

①の場所  f:id:artwriter:20170620223639j:plain

関根の家の方向からたぶん一番近いであろうトイレ。公園に入り込んですぐ幻を見たのでしょうか。

 

②の場所  f:id:artwriter:20170620224028j:plain

 

③の場所  f:id:artwriter:20170620224101j:plain

 

②と③は道を隔てて向かい側に建てられています。開放的で開けた感じの場所です。現在の雰囲気では生活感が強く現実的な場所です。

 

④の場所  f:id:artwriter:20170620224400j:plain

草地広場の中にあるトイレ。木立の中に芝生があり、遊具が置いてある広々とした空間。ぞろぞろと女性たちが列をなしているイメージが湧きそうな場所です。

 

⑤の場所  f:id:artwriter:20170620224702j:plain

現在ではあまり雰囲気を感じない場所。いわゆる公園のトイレ。

 

⑥の場所  f:id:artwriter:20170620224832j:plain

大きな大きなヒマラヤ杉が手前にある場所。この木々は当時もあったのでしょうか。うっそうとした木々が霊的と言えるかもしれません。

 

6か所もトイレばかり撮影している変なおばさん。不審者として職務質問されなくて良かったです。(笑)

関根は、どこで金色に輝く人々を見たのでしょうか。

 

せっかく日比谷公園まで来たので、老舗「松本楼」で古き良き味ビーフカレーをいただきました。この「松本楼」は関根が3階の屋根裏に忍び込んで警察に拘留されてしまったという曰く付きの場所でもあります。

f:id:artwriter:20170620225452j:plain 松本楼外観

 

 

 

 
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ジャコメッティ展 @国立新美術館

細長い像

私の中で「あしながおじさん」のイメージは、ジャコメッティの彫刻です。やたらと細長くてボリュームがない彫像。

「あしなが」であることはもちろんなのですが、「姿がみえず、存在があるようでない。実態がないみたいだけれど、妙に存在感がある」それが少女ジュディが想像する「あしながおじさん」のイメージとジャコメッティの彫刻の男性が重なる部分です。

f:id:artwriter:20170619223353j:plain《歩く男》(1959)

ジャコメッティ

f:id:artwriter:20170619232213j:plain《犬》(1951)

アルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)の作品が大掛かりに展示されるのはあまり記憶にありません。今回は彫刻、絵画、素描など合わせて132点ほどの見ごたえのある展示です。

 

おなじみの細長い像以外に、キュビスムに格闘しているものもあり、そのなかで「キューブ」(1934/35)が面白かったです。

なんの変哲もなさそうなブロンズの塊をいくつかの断面で切り取っただけのようなもの。「これはなに?」と聞かれても答えに窮するところですが、その断面と断面の角度、像から床につくられた影を眺めているだけで何分もぼんやりしていられるのです。禅問答のような不思議な感覚に陥りました。

 

《鼻》(1947)は、首から上の口を開け、錐のような鼻を持つ男の像です。友人の死の衝撃からできた作品とのことですが、私は釣りあげられ船に上げられたカジキマグロを連想しました。海の中で生命力を誇っていたカジキマグロの悲壮な声が聞こえるようでした。

 

「小像」シリーズは、数センチの全身像ですがわずかな凹凸で性別やその人の持つ雰囲気すら醸し出しているのは、すばらしい表現力だと思いました。究極のミニマリズムです。

 

展覧会中盤の矢内原伊作との交流は、初めて知るところでした。東洋人の持つ独特のフォルム、日本人の忍耐強さや知性がジャコメッティを惹きつけたとというエピソードは興味深いところでした。

 

彫刻だけでなく、素描もかなり展示されていました。
顔の表情やしわなどは注目されておらず、顔面や人体の立体感を執拗に描き込んでいます。同じ対象を描くとしても、彫刻家の目と画家の目では、明らかに異なるのですね。

ジャコメッティの見つめるもの

ジャコメッティは対象を「見えるとおりに」表現することを追求したといいます。ジャコメッティにとっての「見える通り」とは、こんなに細長い人物なのでしょうか。私のような凡人には、合点がいかないところです。

しかし、私はジャコメッティの作品が好きです。ただひたすらに前を向いて直立している像は、他を拒絶するくらいの静寂と孤独を感じます。その一方でそんな人間の哀しい性を甘んじて受け入れる強さも感じられるからなのかもしれません。

f:id:artwriter:20170619232243j:plain《女性立像》(1959)

 

 

 
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関根正二の生をたどって -1- 深川をたずねる

関根正二のこと

前回も書きました関根正二福島県西白河郡大沼村(現白河市)に生まれ、1908年一家と合流し上京、深川で育ちます。 16歳の時知人とともに長野へ発ったのち分かれひとりで放浪し、洋画家の河野通勢と出会います。河野に大きな影響を受け、その後ほぼ独学で絵画を制作します。その年「死を思う日」が第2回二科展に入選。その後毎年二科展に入選し続け、1918年、19歳の時に第5回二科展に出品した「信仰の悲しみ」(重要文化財)が樗牛賞に選ばれます。しかし、1919年6月16日結核が悪化し20歳でこの世を去ります。

98年目の命日である日、お墓参りをし関根の育った町をたずねることにしました。

重願寺へお参り

関根のお墓は、東京・錦糸町駅から15分ほど歩いた重願寺にあります。

錦糸町駅前の繁華街を抜けるとまもなく、下町の風情を残した住宅街になります。

 

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1795年からこの地にある浄土宗のお寺です。

山門をくぐると関根についての看板が掲げられています。

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お断りをして墓地に入らせていただきました。

関根は、2つ上の姉フサさんの嫁ぎ先である奥田家に眠っています。墓石の左側に正二の生前の名と戒名が書かれています。

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そこで少し奇遇なことがありました。

この日この墓地でお墓参りをしているのは、私ともう一人のおばあさんだけ。おばあさんの参るお墓は関根のお墓の向かいでした。

肩を触れるような距離でしたので、何とはなしにそのおばあさんと言葉を交わしていたのです。

「私ももうすぐ100になるのでね。」とおっしゃったので

「今年でおいくつですか?」と伺うと、98歳だということ。

つまりは関根が亡くなった年に生まれた方ということです。

なんだかこのおばあさんが、私の現在の時間と関根の命が途絶えた時間の狭間を埋めてくれたような気持ちになりました。

おばあさんが2つの時の橋を渡してくれたことに背を押され、関根の住んでいた場所に向かいます。

関根の育った場所へ

関根の住んでいた場所は、当時の表記で東京市深川区東町46番地。江東区住吉町1丁目、諸説あり5番地とも6番地ともあります。

重願寺より5分程度北に行ったところです。

このあたりを関根少年が友達と連れ立って走り回ったのだろうかと思いを巡らせて歩いていました。

現在は住宅地ですので、写真撮影はやめておきました。

その家のあったであろう場所からすぐのところに菊川橋があります。

関根には《菊川橋》と名のついたスケッチがあります。

大横川の風景だと思うのですが、この辺りは数分歩くごとに橋が架かっています。

菊川橋を挟んで、上流の菊柳橋下流猿江橋にも立ってみましたが「菊川橋に立って観た風景」なのか「菊川橋を観た風景」なのか、風景が変わってしまった今では、確証が持てません。

 

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関根正二《菊川橋》 1916年 紙・インク 37.0×57.0

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柳橋から菊川橋を臨んだ風景。

 

いずれにしてもどこかの橋の真ん中で、この川を見つめ17歳の少年がスケッチをしていたということです。

その時少年には、あと3年しか命が残されていなかったこと、そして100年後そのことに思いを馳せて訪ねてくる人がいることなど、知る由もなかったのです。

 

 
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コレクション展「躍動する個性ー大正の新しさ」@神奈川県立近代美術館 葉山

神奈川県立近代美術館 葉山

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海を望む場所にある神奈川県立近代美術館 葉山。

ここに所蔵されているコレクション展「躍動する個性ー大正の新しさ」を観に行きました。

神奈川県立近代美術館はかつて著名な美術評論家、土方定一氏が長く館長を務めておられ、以後もそうそうたる評論家の方々が館長をされたせいでしょうか。近代日本の作家のコレクションが充実しているところです。

もともとは鎌倉八幡宮の横にあった建物が老朽化のため閉館し、現在は葉山が主軸となって運営されています。

コレクション展「躍動する個性ー大正の新しさ」

展覧会のテーマである大正時代は、この美術館の中でも得意とする分野です。神奈川県にゆかりのある岸田劉生をはじめとして、大正時代は、明治時代に開花した洋画が飛躍し、自由闊達な時代の雰囲気と合わせ、個性的な作家が活躍した時代です。

本展では、岸田劉生童女図(麗子立像)》(1923年)や佐伯祐三《パストゥールのガード》(1925年)をはじめとした58点が展示されていました。

私は、夭折した作家たち、例えば萬鉄五郎、村山槐多、靉光などの生涯に興味を持っていますが、その中でも特に短い20年でこの世を去った関根正二を追いかけています。

なぜ魅かれるのでしょうか。最近の私は関根正二のことばかり考えていて、まあそれはジャニーズの若い男の子に胸キュンしているおばさんのごとくです。

この展覧会に出かけたのも関根の作品が6点ほど出ていたからです。

永遠の春

今回観た関根の素描《永遠の春》(1915年)は興味深いものでした。

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どこかで見たポーズだ…と思いながらも、すぐに気づかなかったのですが、上野の国立近代美術館にあるロダンの《永遠の春》ですね。

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松方幸次郎が美術収集を始めたのは1916年頃から。この作品が松方所蔵になったのはいつからでしょうか。いずれにせよ1919年に没した関根はたぶんこれを観てはいないでしょう。

美術書などでこの彫刻を目にし、心惹かれてスケッチをしたであろう16歳の関根に、実物を見せてあげたかったと思います。

この素描は裏表にかかれており、裏側は《暗き内に一点の光あり》という作品。

素描に添えて「暗き内に一点の光あり 其れを俺れは見て居る 神を知る人は或る感情に俗界に通俗な風姿方をする此れはだ作」と書き込まれています。

完成された作品は、作家が勝負に出た戦闘態勢の姿だとしたら、素描は家でくつろいだり、苦悩する素の姿。

好きな作家の素描は、たまらないですね。

 

 
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『芸術闘争論』/村上隆

村上隆の良さ

反論を覚悟で言い切ってしまうと、村上隆の良さがわかりません。

ルイ・ヴィトンの美しいバッグの上に村上隆のパンダが描かれたコラボ作品を見て「なんと勿体ない!!」と思ってしまった金槌頭です。

お花やパンダちゃんはカラフルで可愛いとは思うけれど、サブ・カルチャー的。

村上隆の経歴は、東京芸大日本画家で学ばれていたのに、まるでアニメ作家のようです。

今でこそアニメや漫画はクール・ジャパンの担い手。世界で称賛されていることは私もよくわかっています。

そうはいっても私は、サブ・カルチャーはサブであるからこそ価値があって、メインにならないところがその良さなのじゃないかなぁという感覚からどうも抜け出すことができません。

芸術学を学ぶ学友にそんな話をしていたら「村上隆は一点を見るのじゃなくて、展覧会で村上ワールドに浸ってこそ、その良さがわかるよ。」と助言をされてしまったのでした。

『芸術闘争論』を読んでみる

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そんなこんなで村上隆を意識しつつも受け入れられない私は、彼の著書に挑戦してみることにしました。

『芸術闘争論』。この本は、世界の現代アートシーンで成功をおさめた村上隆が、何を考え、何を行って今の地位に立つことができたかという現代アーティストを目指す若者向けのノウハウ本のようなものです。

面白くてあっという間に読んでしまいました。

共感はするけれど、納得はできない。

そんないい方はおかしいですが、正直な意見です。

日本の美術教育の陳腐さ。芸術は清貧を良しとする妄想。現代美術を理解するとはどういうことか。

わかるわかる!!と共感する部分です。

けれど、日本では優れた現代アーティストは生まれにくい。実力のあるものは、漫画やアニメの世界で成功していくから、現代アートに挑戦するものは落ちこぼれだと言い切る点は、村上隆流自虐的表現なのかもしれないけれど、納得はできないのです。

心に残った一節

「人間がどうしても芸術にたどり着かなくてはいけないのはなぜか。たしかなことはわかりませんが、犬ですら遊びを欲するのに、人間は高度な遊びとして精神的なバランスをとる知的なゲームをせずにはいられないからなのでしょう。」(P184)

「芸術家の価値は死後、作品によって決まります。ゴッホマティスピカソのような巨匠ですら作家は作品の奴隷であり、乗り物にすぎません。いわんや、われわれなど言うまでもありません。「人生は短く、芸術は長い」のです。」(P282)

こういう言葉を読むと芸術を生み出せない私などは、せめて芸術を正しく見極め、いいものは「素晴らしいよ!!」と声をあげて称賛していかなくてはと思ったのでした。

村上隆・・・その作品の素晴らしさ、私に理解できるのかなぁ。

いつか村上ワールドを訪問し、自分の感性を試してみたいと思っています。

 

 
 
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アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国 @東京ステーションギャラリー

アウトサイダー・アートとは

アウトサイダー・アートアール・ブリュット)とは、精神疾患者、知的障碍者など正規の芸術教育を受けていない人たちの芸術を言います。

精神疾患を持っていても、ゴッホ草間彌生などは芸術家としての修行過程があるから含まれないのだと個人的には思っています。

今回のアドルフ・ヴェルフリ(1864-1930)は、精神病院入院中に絵画制作を覚え、25,000ページにも及ぶ作品を遺しました。アウトサイダー・アートの巨匠とも呼ばれているそうです。

精神疾患の患者さんには独特の感性があるのでしょうから、そこから紡ぎ出すものも刺激的なものが多いようです。

私は、犯罪学や心理学の方面にも興味がありますが、そもそも正常と異常の境界線ってなんだろうと感じています。

創り手がどんなバックボーンを持っていようが、作品として優れていたらそれで十分なわけで、「アウトサイダー・アート」というカテゴリーをつくる必要性は私にはよくわかりません。

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アドルフ・ヴェルフリ

アルコール依存症で犯罪を繰り返す父。貧困の末一家離散。失恋などを契機に精神状態は悪化。幼女暴行の罪を繰り返し、精神病院に入院。そこで、鉛筆と紙を与えられ制作に没頭します。

毎週新しい2本の鉛筆と紙を支給されたそうですが、数日で鉛筆を使い切ってしまい、週半ばからはしょんぼりと過ごしていたそうです。

私は子供のころ、1年間ですら1本の鉛筆を使い切った記憶がありません。

鉛筆を使い切るほどの絵とはどんな絵なのでしょう。

アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国

どの作品も1辺が1m近い新聞用紙に、鉛筆でぎっしりと書き込まれています。うねる帯の中に細かい模様。帯の中には自画像らしき男の顔や鳥や動物らしきモチーフが閉じ込められています。

また、楽譜のようなものと文字もびっしり。

アドルフの中には、言葉と音楽と絵画は並列に進行していたのかもしれません。

はじめはフォークロアな雰囲気もあり、ユーモラスでもあり楽しんで観ていましたが、次第に「面倒くさく」なってきました。

執拗に繰り返される単純なモチーフと帯のようなものが私自身の神経に絡みついてくるような感覚を覚えました。

こういう作品は、少数をじっくりと時間をかけて観たほうが精神衛生上好ましいのかもしれません。

アドルフは冒険記を夢想し、理想の王国を頭の中で築いて、自らが王として君臨していたといいます。

まさに壮大なるイマジネーションの世界。

しかしそこに取り込まれまいと抵抗する私自身は、こちら側の岸にしがみついてもいたのです。

東京ステーションギャラリー - TOKYO STATION GALLERY -

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