「北斎とジャポニスム」@国立西洋美術館

「日本美術、特に浮世絵が近代西洋美術の閉塞感を払拭した」「ジャポニスムがなければ、現代アートは存在しなかった」と信じ込んでいる私です。

ですからこの「北斎ジャポニスム」の企画を聞いて、「よくぞやってくれました!」と大歓迎でした。

 

最近の日本は、どういうわけか「やっぱニッポン最高じゃん!」の風潮が強いですね。自国を誇りにし、愛するというのは当たり前だと思うのですが、「ほら、よその国の人がこんなにリスペクトしているよ。」と他人の評価で自分を再評価するという風潮。奥ゆかしいというか、自分の物差しが持てないというか、そんな昨今に、この企画は絶対にハマること間違いなしだと思っていました。

その読み通り、大混雑の展示会場でした。

 

モネ、ドガセザンヌゴーギャン、メアリー・カサットといった有名どころの作品やエミール・ガレなどのガラス製品ややヴィエイヤール工房などの磁器とそれに影響を与えただろうという北斎の作品を並べての展示です。

ほとんどすべての作品を北斎の作品とリンクしてあるわけですから、それを探し出した苦労たるや頭が下がります。全身で労わってあげたい気持ちです。

その努力を理解しながら、敢えて言わせていただくと、面白くなかったです。この展示。やりすぎです。

 

何点か「この作品とこの北斎は、リンクしているでしょう?」と指摘されれば「あー!ほんとだ!」と楽しむことができます。

しかし、全編になぞ解きをしてしまったら、そのうち感動も薄れ興ざめしてしまいませんか?

美術だけでなく、音楽や文学でも、パクリというか、オマージュというものはつきものです。そうやって先達に学んで進歩があるわけですから。

でもそのオマージュは、秘めておいて、気づいた人が「ねえ、ねえ、もしかしてこれってさぁ・・。」と耳打ちしてほくそ笑む、それがオマージュを知る楽しみでもあるような気がします。

 

最近の美術館は、企画と広報が大変力をつけていると思います。

それにより集客が増えているのは素晴らしいことだと思います。

その一方、エンターテイメント化していますね。

美術の敷居を下げるのは良いことかもしれないけれど、そこに真の感動は生まれるのでしょうか。

気のせいでしょうか、この展覧会、じっくりと足を止めて各作品に見入る人が少なかったような気がします。

わかったふり、観たふりで終わってしまう展覧会に、真の美術ファンが育つのだろうか・・・老婆心かもしれませんが。

 

出口に向かって考えたこと。

当時著作権を主張出来たら、北斎は稀代の財産家になっていたであろうということでした。

 

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