関根正二の生をたどって -1- 深川をたずねる
関根正二のこと
前回も書きました関根正二は福島県西白河郡大沼村(現白河市)に生まれ、1908年一家と合流し上京、深川で育ちます。 16歳の時知人とともに長野へ発ったのち分かれひとりで放浪し、洋画家の河野通勢と出会います。河野に大きな影響を受け、その後ほぼ独学で絵画を制作します。その年「死を思う日」が第2回二科展に入選。その後毎年二科展に入選し続け、1918年、19歳の時に第5回二科展に出品した「信仰の悲しみ」(重要文化財)が樗牛賞に選ばれます。しかし、1919年6月16日結核が悪化し20歳でこの世を去ります。
98年目の命日である日、お墓参りをし関根の育った町をたずねることにしました。
重願寺へお参り
関根のお墓は、東京・錦糸町駅から15分ほど歩いた重願寺にあります。
錦糸町駅前の繁華街を抜けるとまもなく、下町の風情を残した住宅街になります。
1795年からこの地にある浄土宗のお寺です。
山門をくぐると関根についての看板が掲げられています。
お断りをして墓地に入らせていただきました。
関根は、2つ上の姉フサさんの嫁ぎ先である奥田家に眠っています。墓石の左側に正二の生前の名と戒名が書かれています。
そこで少し奇遇なことがありました。
この日この墓地でお墓参りをしているのは、私ともう一人のおばあさんだけ。おばあさんの参るお墓は関根のお墓の向かいでした。
肩を触れるような距離でしたので、何とはなしにそのおばあさんと言葉を交わしていたのです。
「私ももうすぐ100になるのでね。」とおっしゃったので
「今年でおいくつですか?」と伺うと、98歳だということ。
つまりは関根が亡くなった年に生まれた方ということです。
なんだかこのおばあさんが、私の現在の時間と関根の命が途絶えた時間の狭間を埋めてくれたような気持ちになりました。
おばあさんが2つの時の橋を渡してくれたことに背を押され、関根の住んでいた場所に向かいます。
関根の育った場所へ
関根の住んでいた場所は、当時の表記で東京市深川区東町46番地。江東区住吉町1丁目、諸説あり5番地とも6番地ともあります。
重願寺より5分程度北に行ったところです。
このあたりを関根少年が友達と連れ立って走り回ったのだろうかと思いを巡らせて歩いていました。
現在は住宅地ですので、写真撮影はやめておきました。
その家のあったであろう場所からすぐのところに菊川橋があります。
関根には《菊川橋》と名のついたスケッチがあります。
大横川の風景だと思うのですが、この辺りは数分歩くごとに橋が架かっています。
菊川橋を挟んで、上流の菊柳橋、下流の猿江橋にも立ってみましたが「菊川橋に立って観た風景」なのか「菊川橋を観た風景」なのか、風景が変わってしまった今では、確証が持てません。
関根正二《菊川橋》 1916年 紙・インク 37.0×57.0
菊柳橋から菊川橋を臨んだ風景。
いずれにしてもどこかの橋の真ん中で、この川を見つめ17歳の少年がスケッチをしていたということです。
その時少年には、あと3年しか命が残されていなかったこと、そして100年後そのことに思いを馳せて訪ねてくる人がいることなど、知る由もなかったのです。