誰も傷つけない表現とゾーニング
表現の自由と「誰も傷つけない表現」という難しい議論があるようです。
ここで私自身の経験から少しお話してみたいと思います。
私には15年ほど前、大変身近な人を海の事故で亡くしたという経験があります。
大好きだった海を見るのもつらい心理状況が長く続きました。
海は「誰もが癒される場所」であると捉えられがちですが、その当時の私にとっては「とても傷つく場所」でありました。
テレビで海のシーンがあるとそっとチャンネルを替える日々が続きました。
当時「海猿」という映画がヒットしていて、巷に氾濫する映画の情報から身を守るのに苦労をしたことを記憶しています。
私の事情を知らない知人が海に行って楽しかったという話を聞いている間に、つらい思い出がフラッシュバックして震えが止まらなくなったこともありました。
海という一見何でもない表現は、私を傷つけるものとなっていました。
そして2011年3月11日。日本中が悲しみに包まれる出来事が起こりました。
その時の海は「誰もが傷つく場所」となりました。
あの時、海という表現はとてもセンシティブな扱いとなりました。
サザンオールスターズの名曲である「TSUNAMI」も微妙な立ち位置になりました。
その一連の動きを見ていて、私は少し遠い心で「私だけが傷ついた時」は誰もケアしてくれなかったのに、「誰もが傷ついた時」には、丁寧に扱ってくれるものなのだな。と感じていました。
今年も3月11日が近づいてきました。報道はゾーニングの配慮をしているように思えます。
あの日の出来事が未だにつらい方の為にフラッシュバックが起こりそうな場面の前には予告画像が入ります。
それはとても良い配慮だと思います。
出来る限り傷つく人が出ないように予測して、思いやりが持てる世の中は、本当に素晴らしいと思います。
しかし「誰も傷つけない表現」なんてあり得るのでしょうか。
「傷つくこと」は、一人ひとり固有で多岐にわたるものです。
「誰もが」と言い切れる根拠を持つ自信は、私にはありません。
人は傷つきながら生きるのではないでしょうか。
そしてその傷を癒しながら進もうとすることが、まさに生きて「いく」ということではないでしょうか。
確かに表現の制限も必要ですが、制限は束縛という言葉に置き変わるという危険性はないのでしょうか。
ゾーニングも大切ですが、ゾーニングで守り切れない部分もあります。
傷つけられた相手を責めることも一つの方法ですが、瘡蓋を作ろうとする強さを身につけることもまた一つの方法ではないかと思うのです。
「優しさ」が「易しさ」であるとしたら、深みのない世の中になってしまいませんか。