「あやしい絵展」@東京国立近代美術館
待ちかねた本展の会期最初の週末。
行ける時間枠にたった1枚あったネット予約枠を得て会場に向かうと、そこには長蛇の列。
事前予約なしでも、行列覚悟なら観覧できたのか。
いや、でも、密。
その長蛇の列を横目に思うこと。
「あー、この展覧会、キュレーションの勝利だわ。」
このご時世、海外から有名な作品を引っ張ってくることも出来ない。
当然この展覧会で出展される作品は国内の、ほぼ常設で見られる作品が多々。
類似テーマ、同作品が、千葉市美術館や弥生美術館などで何度も展示されていた上、小村雪岱ときたら三井記念美術館で会期すらダブっている。
でもそれらがそれほど話題にならず、本展の集客が抜群なのは「あやしい絵展」というテーマの妙なのだろう。
甲斐庄楠音や秦テルヲなど、巷では知名度はほぼないだろう。
そういう作家たちの名前を掲げた展覧会よりもズバリ「あやしい」とグルーピングしたところがウマイのだ。
大正趣味、あやしいフェチの私にとって、彼等「あやしい」グループの作品たちが話題になってくれることほど嬉しいことはない。
そして本展、ほぼ撮影OKなのでSNS時代にはありがたい。
京都人である甲斐庄楠音にとって《畜生塚》とは、京都・瑞泉寺にある畜生塚に他ならないだろう。
秀吉の逆鱗に触れて自害させられた秀次と共に処刑された三〇余りの妻妾たち。
彼女たちの悲鳴と祈りが聞こえてきそうな大作だ。
一人の男と出遭ったがために運命を狂わされた女性たち。
時には愛憎劇も繰り広げた間柄でもあっただろうが、悲劇の土の中では互いにいたわり合うことしかできない女たちだ。
自画像とも言われる本作だが、成園には顔に痣がなかったそうだ。
「痣のある女の運命を呪ひ世を呪ふ心持を描いた」という。
顔はただの表象にすぎず、多くの女の心には痣があるはずだ。
描きかけの草花図を前に「これが私が選んだ道」という覚悟の女。
その女の鋭い視線にさらされる私。
貴女には貴女の道を生きる覚悟があるのか。
女に突き付けられる命題にいつまでもその場を立ち去ることが出来なかった私だ。
とても魅力的な作品の数々。
可愛くもあり、美しくもあり。哀しくもあり、恐ろしくもあり。
ほとんどが「女」だ。
なるほど「あやしい」はおんなへん。
しかし女というものはそんなにあやしいのか?
男はあやしくないのか。
男は女の中のあやしさを見つけては、恋をするのだろう。
女はそれを知りつつあやしさを演じているのかもしれない。