『日本洋画の人脈』 田中 穣
近代日本の洋画は中途半端な存在なのかもしれない。
日本、といえば日本画が主流。(なのかもしれないし)
油絵、といえば欧米が本家。(なのだし)
現代の日本のアート・カルチャーは、クール。(だといわれているし)
近世以前の日本の芸術・工芸は、個性的。(とリスペクトされているし)
その、どれにも属さない「近代日本の洋画」という存在は中途半端なのだろう。
だからこそ、私はこの時代の洋画に興味を持ってしまうのだが。
時代的にも、明治維新を経て社会の秩序が根底から崩されてしまい
西洋の情報が怒涛のごとくなだれ込んできた。
この時代は国家としても個人としてもアイデンティティの迷走だったのだろう、
まさにそれそのものの写し絵が、近代洋画界ではないだろうか。
見たこともない油絵具という画材をどのように扱い
立体的で、遠近感のある絵画をどうやって描くのか。
そこから始まった川上冬崖や高橋由一の苦労はいかばかりだったか。
その後近代洋画界に君臨した黒田清輝の功罪とつねに微妙な位置にいた藤島武二。
青木繁や萬鉄五郎、岸田劉生などと個別に抜群の才能を秘めた人びとがいたのに
未だにあまり評価がされにくい洋画界の人脈とその背景を本書は紐解いていく。
日本洋画史を学ぶ機会は、結構少ない。
美術史が学べる大学にも専門にした教員も少ないから、当然講義や論文も少ない。
本書は昭和47年の著書ですでに半世紀近くたったものだから、「現代美術」に関してはすでに現代ではないけれど、日本洋画史として筋を追うには今読んでも優れたものだ。
読売新聞美術記者である著者が朝刊連載「日本の人脈」の「洋画」の部分を加筆改稿して出版した理由をあとがきから引用してみる。
ー略ー …明治以後の日本洋画の発展の過程がひどいゆがみを持っていることに気づきました。極端ないい方をすれば、右に行くべきところを左に歩きだし、いまもって目的地とはまったく逆の方向をたどりつづけているようなまちがいが見えてきたのです。そのスタートをきったのが、美術界の常識では日本の近代洋画の父とされる黒田清輝であって、しかもそのまちがいを犯させたばかりか奨励もして、その後の日本洋画に今日の決定的な混迷をもたらした元凶が、安手な文明開化・殖産興業に血道をあげた明治新政府と歴代政府にほかならなかった事実を、わたしは重要視しないではおれなくなりました。
しかも、黒田とそれ以後の主流のようなまちがいを犯さなかった浅井忠、青木繁、関根正二、岸田劉生、万鉄五郎(ママ)、佐伯祐三から藤田嗣治までが、当時の洋画界一般のようなまちがったスタイルを踏んでいないということで邪道の扱いを受けた事例がつぎつぎとわかってきたのですから、わたしはもはや黙っていられなくなりました。ー略ー
『日本洋画の人脈』 田中 穣 新潮社 昭和47年発行
絶版本なので古本で驚くほど安価で買える、価値あるテキストだと
個人的には思う。
新聞記者なので文体も読みやすいところもまた良し。
昭和のキャバレー王が愛した絵画 コレクター福富太郎の眼 @東京ステーションギャラリー
緊急事態宣言が緩和し美術館が再開された。
今回のコロナ渦中で学んだことは、行こうと思う展覧会はとにかく早く行っとく!ということ。
そこで早速東京ステーションギャラリーに向かった。
芸術史を学べば学ぶほど、当然だけれど作家も生きた人間であり、生活があるのだということを痛感する。
どんな高尚な作品を作り出す作家でも、霞を食べて生きていくことはできない。
作品に経済的な価値を付加してこそ、作品ないしは作家自身が守られる。
福富太郎の鏑木清方との出会いは、相思相愛の幸せな出会いだったのだろう。
美人画といえば、上村松園、伊東深水などが挙げられるが、私は清方が一番好きだ。
本展で出品された清方作品の中でも、異質に思える《刺青の女》(1913年頃)や《妖魚》(1920年)のようなアウトローな作品にこそ、その上品さがここぞとばかりににじみ出ている。
特に《妖魚》の髪の表現の素晴らしさ。水気を含んだような漆黒の髪が人魚の体に纏わりついている。彼女が今にもその髪を揺すって、水滴を蒔き散らかすように思える。
福富は心ゆくまでこの絵の前に居られる幸せ者だったのだ。
清方の絵のそこはかとない色気、ノスタルジックな物語性。
福富の眼もきっとそこに注がれたに違いない。
清方から始まり、清方ゆかりの作家たち、同世代の油彩画など、福富のコレクションは清方の色気や気品に通じる作品が多く筋が通っていて清々しい。
福富ほどのコレクターになれば、多くの作家や画商が売り込みに来ただろうに、雑音をはねのけるほどの審美眼と研究心を持ってぶれることがなかったのだろう。
「塩治高貞妻浴」や「お夏狂乱」など同じ主題で作家が異なるものを蒐めているのも面白い。
以下、好きな作品を徒然と。
尾竹竹坡《ゆたかなる国土》
色彩の美しさと、自然の実りの中で生きる古代人の息づく生命力。
島成園《おんな》
するすると滑るような黒髪の美しさ。清方の《妖魚》の黒髪が大海の波であれば、《おんな》の黒髪は白糸の滝のよう。
松本華羊《殉教(伴天連お春)》
自らの運命を悟ったような、また神のもとに召される幸せに酔っているかのような恍惚とした表情とひとつひとつの桜の薄い花びらの表現が悲しいほどに美しい。
残念ながら会期半ばで終了してしまった東京国立近代美術館の「あやしい絵」展。
そこで展示されていた作品、また同作家の作品が重複していた。
「あやしい絵」展に行きそびれてしまった方もここでリベンジができる。
福富太郎の人となりに興味を持ったので、ミュージアムショップで『芸術新潮5月号』を買ってみた。
なるほど面白い人だ!
生前にお話してみたかった。
柳原義達展&川瀬巴水展 @平塚市美術館
緊急事態宣言で都内の美術館がクローズになってしまったので、近場の美術館へ。
こういう時、地元の美術館が元気であるのはうれしい。
6月13日まで平塚市美術館では三重県立美術館全面協力の「柳原義達展」と地元コレクター荒井寿一氏の「川瀬巴水展を行っている。
開館30周年記念「柳沢義達展」
本展が人物像(ほとんど裸婦像)と鳥(鴉あるいは鳩)を集めたのが、代表作だからなのか、なんらかの展示意図によるものかは柳原義達については詳しくないのでよくわからない。
開館30周年記念 荒井寿一コレクション「川瀬巴水展」
美術品は一定の価値を持たないと保存されていかないし、現存の作家は食べていけないからだ。
それは100点を超える版画だけでなく、巴水が挿絵を手掛けた書籍、雑誌、絵葉書などそれはそれはあらゆる面での巴水づくしは、コレクション魂が現れているからだ。
モンドリアン展 @SOMPO美術館
かつてモンドリアンの絵の様なドレスがあったな、と調べてみたら
1965年のイブ・サンローランの作品「モンドリアン・ルック」のことだった。
黒い直線に赤・青・黄の四角。
モンドリアンといえばまさにこれ。
今回の展覧会に展示された下の作品も一連の作品の一つだけれど、《大きな赤の色面、黄、黒、灰、青色のコンポジション》というタイトルだと、モンドリアンが何を考えてこの作品を描いたのか、そしてどうしてまたこんな線や四角を描こうとしたのかが全く分からない。
SOMPO美術館で行われた「モンドリアン展」を見ればなにかヒントを得られるのだろうか。
モンドリアンがこの線と四角で構成された作品を確立したのは1921年頃だという。
その当時50歳くらいだ。
そこに至る迄の彼の若き頃、どんな絵を描いていたかというのは本展で、良く分かる。
例えば30歳のころ描いていたのが《ダイフェンドレヒトの農家》みたいに、農村や牛といったバルビゾン派みたいな土臭い、ダークな色調の風景画だった。
こんな絵から画家人生が始まったのかなと思うと意外な感じだ。
でもちょっとここで彼らしい特徴が見受けられる。
農家の建物を描いてみれば、屋根の三角や壁の四角を妙に印象的に描く。
牛を描いてみれば、顔や角には重きを置かず、胴体が画面中央にドンと陣取ってしまう。
彼は物の表面というものに興味があったのだろうか。
その後神智学にかなり傾倒したらしいが、その神智学というのは本当に難しい。
神智学は宗教ではありません。神聖な知識または神聖な科学です。また、神智学はあらゆる宗教、真理のエッセンスです。その真理の一滴があらゆる宗教の基礎となっています。比喩的に言いますと、この世の宗教はプリズムによって分解された7色の光のどれかです。それぞれの色の光は、その色の違いによって互いに攻撃しあったり、偽物だとののしったり、無視したりします。しかし、人間の認識が成長するにつれ、色のついた光は次第に色あせ、最後には永遠の真理である白光を見るようになるでしょう。それこそが神智学です。
(神智学の教え | 神智学協会より)
以前神智学と芸術について調べた事があったけれど、さっぱりわからず降参した。
この作品が「神智学の影響がありました」といわれる、例えばとても愛らしい《少女の肖像》などだけれど、どこがどう影響があるのか凡人には良く分からない。
その後、キュビスムの影響を受けた作品や「デ・ステイル」に参加したりと様々な経験を経て、あの直線と四角のコンポジションに辿り着いたようだ。
抽象画の中では音や熱を感じるようなカンディンスキーたちに比べて、モンドリアンは「冷たい抽象」と呼ばれる。
本展に出展された《ドンブルグの教会塔》や《砂丘》の連作を見ているとモンドリアンの興味は、何かを見て感情がフツフツと沸き上がってくるというタイプでなく、「これは何でできているんだろう」的な分析が先に来るタイプの人なんだろうなと思った。
つまりは「理論派」とか言われる理屈っぽいタイプの人なのかもしれないけれど、私的には、そういうタイプの人の頭の中って割と興味あるな。
「あやしい絵展」@東京国立近代美術館
待ちかねた本展の会期最初の週末。
行ける時間枠にたった1枚あったネット予約枠を得て会場に向かうと、そこには長蛇の列。
事前予約なしでも、行列覚悟なら観覧できたのか。
いや、でも、密。
その長蛇の列を横目に思うこと。
「あー、この展覧会、キュレーションの勝利だわ。」
このご時世、海外から有名な作品を引っ張ってくることも出来ない。
当然この展覧会で出展される作品は国内の、ほぼ常設で見られる作品が多々。
類似テーマ、同作品が、千葉市美術館や弥生美術館などで何度も展示されていた上、小村雪岱ときたら三井記念美術館で会期すらダブっている。
でもそれらがそれほど話題にならず、本展の集客が抜群なのは「あやしい絵展」というテーマの妙なのだろう。
甲斐庄楠音や秦テルヲなど、巷では知名度はほぼないだろう。
そういう作家たちの名前を掲げた展覧会よりもズバリ「あやしい」とグルーピングしたところがウマイのだ。
大正趣味、あやしいフェチの私にとって、彼等「あやしい」グループの作品たちが話題になってくれることほど嬉しいことはない。
そして本展、ほぼ撮影OKなのでSNS時代にはありがたい。
京都人である甲斐庄楠音にとって《畜生塚》とは、京都・瑞泉寺にある畜生塚に他ならないだろう。
秀吉の逆鱗に触れて自害させられた秀次と共に処刑された三〇余りの妻妾たち。
彼女たちの悲鳴と祈りが聞こえてきそうな大作だ。
一人の男と出遭ったがために運命を狂わされた女性たち。
時には愛憎劇も繰り広げた間柄でもあっただろうが、悲劇の土の中では互いにいたわり合うことしかできない女たちだ。
自画像とも言われる本作だが、成園には顔に痣がなかったそうだ。
「痣のある女の運命を呪ひ世を呪ふ心持を描いた」という。
顔はただの表象にすぎず、多くの女の心には痣があるはずだ。
描きかけの草花図を前に「これが私が選んだ道」という覚悟の女。
その女の鋭い視線にさらされる私。
貴女には貴女の道を生きる覚悟があるのか。
女に突き付けられる命題にいつまでもその場を立ち去ることが出来なかった私だ。
とても魅力的な作品の数々。
可愛くもあり、美しくもあり。哀しくもあり、恐ろしくもあり。
ほとんどが「女」だ。
なるほど「あやしい」はおんなへん。
しかし女というものはそんなにあやしいのか?
男はあやしくないのか。
男は女の中のあやしさを見つけては、恋をするのだろう。
女はそれを知りつつあやしさを演じているのかもしれない。
Art Fair Tokyo 2021② 絵画編
前記事に引き続いてArt Fair Tokyo2021のレポです。
本記事は絵画編となります。
三宅信太郎さんのユーモラスな動物たちは、身近に置きたいアートとして最適かもしれません。
三宅さんはアール・ブリュットにも影響された作家さんだとのことで、偏執的な模様があったり、通常では見ないであろう方向から見た動物には、そういう部分が現れているのかもしれません。
ただカワイイというよりも、少し毒を帯びた感じの動物たちの視線は、こちらを見透かしているようにも感じるものです。
川内さんの作品は、どこかに必ずセクシャルなニュアンスがあって、ドキドキするほど官能的です。
これといった具体的なものが具体的に描かれているわけではないけれど春画を見るような恥ずかしさがあると私には思えます。
本作はそれらから比べると毒が少ない感じです。
これなら堂々とリビングに飾れる?
そう思わせるところでどこか川内さんにしてやられているところがあるのかもしれません。
左の作品のマテリアルが面白かった。
トタンの凸凹を活かして、絵の具を押さえつけている感じです。
たぶん絵具が塗られている平面にトタンを押し付けて着色しているんじゃないかなぁ。
こういう質感は初めて見たような気がして新鮮でした。
作品を見ていたら、甲斐さんからお声をかけていただいて作品についてお話をしていただきました。
この作品は水蒸気やら空気やらを取り込んで、またそれを発している植物の状態を表しているそうです。
植物はただ佇んでいるように見えるのですが、私もガーデニングをしていて感じることは、植物の呼吸やらの生きようとする貪欲さがすさまじいいきものです。
そんな感じが伝わってくる作品でした。
次に紹介する2人の作家さんの作品は、「本当に欲しい!」と思った方たちです。
東さんの作品は、大胆なタッチと明るく優しい色彩が特徴です。
ほのぼのとした人の表情に包容力を感じるのですが、その反面なんとなくもの悲しさも感じさせるところが、一筋縄でいかない、そしていつも飽きずに眺められそうな気がして、身近に置いておきたくなるところでしょうか。
なんと初日に完売してしまったそうです。
平子さんの作品には、樅木にトナカイの角が生えたような男の人が登場します。
私は勝手に「クリスマス男」と名付けていたのですが。
自然破壊への警鐘やクリスマスという特別感などが表現されているのでしょうか。
平子さんの小さな作品をいくつか家のあちこちに飾って、その前を通るたびに「ふふっ」とほほ笑んで日々を豊かに過ごしたい。
そんな気持ちにさせる作品たちです。
アート・フェアというのはこういう雰囲気なのかという初体験でした。
どのブースに人が集まり、人々がどんな感想を述べているのかを小耳にするのも楽しいし、なにより作家さんと直接話ができたり、作家さんを日ごろ支えているギャラリーの方のお話を聞くのもとても楽しい。
そう考えると、言葉は悪いけれど美術館とは少しカビの生えた遺品置き場のように思えてしまいました。
それくらいアート・フェアが生き生きとした場だったということです。
また付け足しのお話ですが、このフェアで岡本神草の小さな軸装がさりげなく置かれていたり、100年ぶりに見つかった村山槐多の木炭が誰にも目にとめられず素通りされていたりしました。
近代絵画を専門としている私としては、ちょっと残念な、しかしこれが現況なのかなあなどと現実を見た思いでもありました。
Art Fair Tokyo 2021① 造形編
コロナ禍の影響で昨年は中止となったArt Fair Tokyoが今年は無事開催されました。
今迄アートは「観るもの。そして美術館に在るもの。」と思っていた私も、そろそろ「現代を生きる作家さんにも目を向け、できるなら所有もしたいな。」と考えるようになりました。
今の職場の上司(と言ってもずっと私より若い)がアーティストを目指していた人なので、良く作家の立場からの話を聞くのですが。
日本人は現代アートについてどうしても逆輸入が好きだよね、という話をします。
もっと自分の見る目を信じていいと思います。
では所有するアートという観点で観ると、美術館で感動するものとはちょっと異なってくると思いました。
例えば、フランシス・ベーコンやエゴン・シーレなんて辺りが私は好きで、美術館ではずっと観ていられるタイプの作品ですが、それが家に在ったらどうだろう。
落ち込んだ日にこれを観てたら、絶対欝がひどくなるよな。
そんな感じで今回は、パワーや安らぎを感じられそうな作品や作家さんに注目して紹介してみたいと思います。
四代目田辺竹雲斎さんの作品は小さなものもありましたが、この作品は人と比べたら大きさが想像つくと思いますが、本当に巨大な作品。
もちろんこんな作品は我が家には入らないのですが、竹で組み上げた凄さ。
パワーを感じます。
岩崎卓さんは、岩とガラスを組み合わせた作品をいくつか出展していました。
この作品は卓上における大きさですが、もしも家に在ったら水族館の様に思えると感じました。ガラスの中をのぞいては、存在するはずのない水の揺らぎや魚の影を探してしまうような気がします。
この鋏は、木製に漆を塗って出来た作品。実は三井記念美術館で以前これを観ていて、印象に残った作品でした。
たまたまギャラリーの方(古美術鐘ヶ江)とお話ができ、持たせていただくことが出来ました。
人が知っている鋏の重さを裏切るという意味で、楽しい作品です。
また同じギャラリーで三井記念美術館で見た「枯百合」の作家さんが出展している作品も教えていただきました。↓
お名前や薄く彫られた繊細な作品のイメージから、勝手に楚々とした女性の作家さんだと思っていましたが、大柄な男性の作家さんだそうです。
確かに木を彫るというのは力技なのでしょうが。
どんな方が創られたのかを知れることも楽しいことです。
小坂さんのすべての作品は、マテリアルの欄に「ケント紙」と書かれています。
スニーカー、時計、電子機器など。その再現力に圧倒されます。
これも前出の鋏と同様、持ち上げてみたらとても軽いことでしょう。
だいぶ長くなりました。
ここまで造形編ということで、一旦筆をおきます。