トライアローグ 語らう20世紀アート @横浜美術館

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https://yokohama.art.museum/special/2020/trialogue/index.html

横浜美術館はこの展覧会を終了すると、2021年3月1日(月)から大規模改修工事にともない長期休館に入る。

親しみのある地元の美術館に行けなくなるのは寂しくて、見納めのような気持ちで本展に出かけた。

コロナ禍で海外との往来が不自由になってしまった今、美術館の役割も色々と変わらざるを得ない。

例えば海外から作品を借り入れての展覧会を行うことがほとんどできず、各館はさまざまに企画を工夫しているようだ。

この「トライアローグ」もその一つで、横浜美術館富山県美術館・愛知県美術館の3館がタッグを組んでそれぞれの所蔵品を持ち寄って巡回展を開いた。

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それぞれ20世紀西洋美術というキーワードのもとに集めたお宝を一堂に会すると、まさに壮観だ。

海外からお金をかけて作品を呼び寄せなくても良いんじゃないだろうか。なぜこのような企画が今までなかったのだろうか。コロナで失った大切なものは数多いけれど、知恵を出して得たものも多かったのかもしれないと、思う。

 

ピカソから展示がはじまるところから、ドキドキは止まらない。
全く異なる作風の4枚の女性は、ピカソの天才性を現わす。私は《肘掛け椅子の女》(1923年、富山県立美術館蔵)をうっとりと見る。モノクロの静かなたたずまい。柔らかな白の絵具が女性を照らす光をなぞる。少ない筆数だけで女性の柔らかな体のまろみを表すなんて、なんという画力なんだろう。左上に記された赤い絵の具のサインが小粋だ。

 

ジャック・ヴィヨンの《存在》(1920年愛知県美術館蔵)は、「構造的分解」により分解された人物。それは偉大過ぎる父の存在で、右にあるその影は息子のよう。息子は父の大いなるその存在に、自らの存在を図形の下方へ奥深く沈めていくしかないような悲しみを感じる。それは父と子というより、虚構と実なのかな。おそらく形(存在)の追求を極めたに過ぎない作品に、少し思い入れが過ぎただろうか。

 

人びとは暗い色調の《少女が見た湖の夢》(マックス・エルンスト、1940年、横浜美術館蔵)の前を一瞥して通り過ぎていく。私はなぜか惹かれて、結界のぎりぎりに立ち、この画面を探索する。暗い部屋に暫く居ると徐々に目が慣れて、鮮明に見えるように、この画面に描かれている怪物たちが見えてくる。鋭い爪、恐ろしい形相の怪物たち。右下に裸体の少女がここから逃れようとしている。しかし少女もまたこの暗い湖畔の森の色に今まさに同化せんとしている。少女は、この夢から覚めて慄いたのだろうか、泣き叫んだのだろうか。

 

ポール・デルヴォーに登場する女性たちはみな不思議だ。どれもマネキンの様に妙に永遠だ。《夜の汽車》(1947年、富山県美術館蔵)の3人の女性もきっと永遠にそこに、そのまま居るだろう。3人の視線は交わらず、きっと言葉も交わさない。開いた眼には何も映らないだろうし、瞬きもしない。待合室だというこの部屋は、夜の汽車で運ばれた男を待つ部屋なのだろうか。右手の女性が持ち上げた乳房を、やって来た男が愛撫したところで、彼女は身じろぎもしないだろう。

 

横浜美術館は、2月28日まで。

その後、愛知県美術館(4月23日~6月27日)、
富山県美術館(11月20日~2022年1月16日)と巡る予定だ。

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