クリスチャン・ボルタンスキー@国立国際美術館
国立新美術館で行われていた当展。
話題になっていたのは知っていたけれど、見逃してしまった。
たまたま来阪していたので、行ってみた。
批評を読んでも、ボルタンスキーについての予備知識がなかったので、どんな展覧会であるか予想がつかず。それもまた良しとして、とにかく素の状態で観てみようと思った。
入口を入ると薄暗い世界に電飾が待ち構えていて、右手には苦しむ男性の姿が映し出された映像。
置かれたヘッドホンを付けてみると、激しく咳き込む音が聞こえる。
私も咳喘息を持っていた経験があるが、咳がひどくなると「死んでしまうのではないか」という不安感に襲われる。
ただでさえ、他人の咳音を聞かされるというのはとても不快なのに、体験から来る恐怖感が「これより先はきっと危険ゾーン」という警鐘を鳴らす。
そしてその先は、モノクロの写真の世界が降り注いでくる。
なぜだろう。それらの写真を一見しただけで、ホロコーストの悲劇であると直感する。
古いガラス窓から覗いたようにぼやけた焦点。ユダヤ人特有の顔立ち。
家族と、恋人と、笑い合う写真の主人公たちは、きっと今この世にはいないのだろう。
インスタレーションのあちこちに灯る黒いコードの先の豆電球は、長い人類の歴史の中に、一瞬だけ灯る命なのだろうか。
圧巻は、この大量の衣服が吊るされた壁面。
持ち主を失った服飾品とは、なんと雄弁なのだろう。これを纏っていた人々はどこへ行ったのか、そしてこれらを脱いだ彼らは今、何かを纏うことができているのだろうか。それはまるでアウシュビッツで山積みになった眼鏡の写真を思わせ、恐怖の沼へ引きずり込む。
スイス人たちの顔写真が張られた金属製の箱が整然と並んださまは、死人とはこうやってこの世から整然と整理されて忘れられていくのだということか。
暴力的な表現があるわけではない。しかし会場に響く心臓音の中で、生のすぐ隣にありながら、封印している死への扉が開かれ手招きされているような本展。
私にはとても恐ろしく、早くここから立ち去りたい気分にさせられた。
しかし、それは「ここへ来なければよかった」というのとは、また違う。